川俣正〔通路〕





Installation views
Photos ANZAI
2.9 - 4.13
東京都現代美術館
文:藤本壮介
展覧会を見終わって、なんともすがすがしい気分になった。春の温かい日であったせいもあるのかもしれないが、それ以上に、自分の身体が能動的に反応している嬉しさ、つまらない解釈に疲労することなく、脳が身体的に活動し始めたようなすがすがしさだった。自分も何かしてみたくなる感じ。何をするのかはよくわからないが、それでも何か、ちょっとしたことをしてみたくなる感じだ。昔ピカソ美術館でピカソ晩年の陶芸作品を見たときにも、さっそく自分も粘土をこねてみたくなったのを思い出す。同じようなすがすがしさを感じた。そういう人を誘い込むようなところが、川俣さんの作品にはある。
アートというものは、人間の自由を拡張していくものだといえる。でも自由というのは奇妙なもので、それを「表現」するために、かえって不自由に依存してしまうことがある。そしてホワイトキューブに象徴される美術館というシステムが、ときにその「不自由」の言い訳として利用されてしまう。真っ白い空間でしか成り立たない繊細さ。白い部屋によって、世界と切り離されることでしか異常さを発揮できない作品たち。そんな純粋培養された作品たちを見せられるとつらい気持ちになる(もちろん同じことは建築についても言うことができる)。確かに、現代においてアートをするということは、大変なことに違いない。美術館の中でどんなに狂ってみたところで、最新のバイオテクノロジーやナノテクノロジーによって生み出させる奇妙な成果のクレージーさ、人間を月に運び、世界中で膨大な無駄な情報をやり取りしているインターネット空間のリアルな狂気と比べれば、アートははるかにかすんでしまう。そんな悲観的な気分になるような作品は見たくない。
そんな中で、川俣さんの作品は、とてもすがすがしい。それはひとつには、自由さを不自由さによって説明しないからだ。美術館という不自由さの中でしか引き立たない自由さではなく、そもそも自由なのだ。それがすがすがしい。川俣さんが、白い展示室という背景を必要としない活動を行ってきたからこそ、培われた自由さであり、強さだろう。白い展示室を背景としない代わりに、世界の雑多の中に飛びこんで、自分自身が白い展示室となるという反転は、理論的にはありえるだろう。それも結局は図と地を入れ替えただけで、即席の不自由さという枠の中だけでのナイーブな表現という点で変わりはない。しかし川俣さんのアートは、そういういやらしさもない。自由と不自由の対比を超えて自由である。
たぶんそれは川俣さんの自由さが、開いているからであろう。
僕はこの展覧会を見たあとに、「通路」というタイトルのことを考えていて、ふと、保田與重郎の「日本の橋」の中に出てくる、ローマの道と日本の道の話を思い出した。ローマの道は、先に何があろうと周囲がどんなであろうと、それらと関係なく、ひたすらまっすぐ進んでいく。それに対して日本の道は、山の形に合わせてうねり、谷を迂回するようにうねり、その行く先でのさまざまな状況に左右されながら、くねくねと続いていく。川俣さんの通路は、まさにこの日本の道だ。ローマの道が、周囲を無視し、あるいは対比の相手として利用しながら突き進む、閉じた道であるのに対して、日本の道は、周囲の状況と対話しながら自ら変化し相手を変化させて続いていく。つまり道が開いているのである。
そして2005年に横浜トリエンナーレの会場構成チームの一員として川俣さんとプロセスを共有したときのことを思い出す。川俣さんは「・・・って面白そうだよね」とか、「・・・・やってみようよ」とか、そういうことしか言わない。そうやって話をしているうちに、なんだかこちらも川俣さんのペースに巻き込まれてきて、すごく面白くなってくる。何が面白いのは良くわからないのだが、わからなくても、なんだかいろいろやってみたくなってくる。みんながそんな気持ちになって、物事がどんどん動いていく。それがすごく不思議だったのを思い出す。そうやってプロセス自体も開いていて、作られるものも開いている。こんな自由もあったのだと、頭ではなく全身が反応する。
この狂気に満ちた現代にあっても、こうして自由を拡張することができるのだ、ということに何よりも勇気付けられる展覧会だ。
登録日:2008年04月15日