ART iT Japanese-English bilingual art quarterly

Art scene
劣化コピーの時代 今野裕一 物語としてのキュレーション 高山宏

横浜美術館『GOTH −ゴス−』展(2007年12月22日〜2008年3月26日)について、ゴスカルチャーを見守り続けてきたふたりが論じる。

これで「ゴス」のイメージは拡散して間違いなく次のラウンドに入る。横浜美術館の「ゴス/ゴシック」を取り上げた展覧会を見てまずそのことを思った。

sawa photo
Ricky Swallow, Younger than Yesterday, 2006
Lime wood
Collection Tiqui Atencio Demirdjian
sawa photo
Pyuupiru, Selfportrait #02 A 12-year-old Boy Bearing Scars, 2005-07
Digital photograph, inkjet print
Courtesy the artist
sawa photo
Yoshinaga Masayuki, Goth-Loli (Gothic Lolita), 2006
Digital photograph, inkjet print
Courtesy the artist
sawa photo
Tabaimo, Ginyo-ru (guignoller), 2005
Video installation
Photo Ufer! Art Documentary
Courtesy the artist and Gallery Koyanagi

3年ほど前、名古屋の中学生が修学旅行の自由研究で『夜想』編集部を訪れた。教師も両親も「ゴス特集」のような危ない本を出しているところに行っては駄目だと、本気で止めたということだ。彼女たちはおしきって話を聞きに来たが、くれぐれも気をつけてねと念を押された。この時点で、「ゴス」は、まだ一般社会からは、良く分らないそして何か危ないものとして受け止められていた。ファッションであるかもしれないが、異端の何かだった。今の日本で、「ゴス」のような現象の伝播と消費は早い。あっという間に拡散し変形していく。

横浜美術館の『GOTH−ゴス−』展は、「ゴスという言葉の現代日本での使われ方は元の意味から乖離しているように見えるけれど、そこを線でつなげてやることで新しいコンセプトやストーリーが見えてくる」(『GOTH −ゴス−』展図録、束芋 インタビューより)という考えでキュレーションされている。

しかし、実は「ゴス」はゴシックから導き出すことができない現象であるということを見落としている。ゴシックは確定された歴史であり、概念であり、もしかしたら思想でもあるかもしれない。欧米の現代美術や現代演劇は、どんなに前衛であっても前史を踏まえた上で展開している。しかし「ゴス」は現象であり流行でありうつろっているものだから、その流れでとらえることはできないのだ。「ゴス」はどこかでゴシックに似ているところもあり、微かに繋がっているかもしれないが、ゴシックから乖離して面白いのだし、それがアイデンティティなのだ。そしてその乖離度合が、今この国で起きている特殊に興味深いことなのだ。

「ゴス」だけに限らず、サブカルチャーという言葉も日本では変形使用される。元の言葉は、一般社会と違う価値観をもったグループをさす言葉で、日本のようにメディアがからんだポピュラー・カルチャーをさす言葉ではない。まさに初期の「ゴス」や「ロリ」は、サブカルチャーであった。日本で人形はドールになり、耽美はお耽美になる。この特殊変化は、今までの分析法ではなかなか捕らえることができない、歴史に登場していない変化だ。

「ゴス」としては、「どこから来たかなんて、そんなの関係ない」という感じが本音だと思うが、「でも私たち馬鹿じゃないから、ゴシックというものも知っててよ」と、ゴシックの歴史を語ったりもする。そしてさらに興味深いのは、積極的に歴史を書き換えたり、あるいはどこかの歴史に繋がって自分たちの存在を主張したりすることだ。たとえばマリリン・マンソンが、「バウハウス」がゴスの先駆だなどというと、「バウハウス」自体もこれを機に再ブレイクしようとそれを肯定する。鵜呑みにするとそういう歴史が書かれることになる。

「ゴス」は「ゴシック」の劣化コピーに見えたりもするが、そうではない。自分たちの存在が先にあってコピー元を探しだして指名するのだ。だから「ゴス」の側からゴシックを見ることはできても、ゴシックの側から「ゴス」を語ることはできないのだ。

そこが『GOTH−ゴス−』展の逆劣化コピーであるという所以である。ゴスという言葉をはずして、ゴシックのテーマを現代作家が表現する展覧会ということなら、100点満点だと思う。でもゴシックの現代版がゴスではないのだ。

『GOTH−ゴス−』展のような展覧会が開催されれば、いやおうなしに「ゴス」が一般化し、イメージが拡散していく。拡散という本当の意味での劣化コピーがはじまる。それもまた面白い変化である。しかしその劣化コピーがあまりにチープだと、存在自体があっという間に終焉してしまうということもある。

吉永マサユキの「ゴス」と「ゴスロリ」の写真群は、正確には、「ゴス」と「ロリ」とそこから派生したいろいろの写真群で、パンクもいれば、フェティッシュもいる。そして人形作家も写っていれば、イベントの主催者もいる。写真としての視点、距離感も揃っていない。本人もキュレーターも「ゴスでない存在も入っています」と言っているが、それなら入れるべきではないだろう。何故なら、こうした要素が揃っていない写真群の中からゴスとゴス以外のものを簡単に峻別することができないからだ。結果として、そこに写っているもの全部が「ゴス」として劣化コピーされて観客の中に入っていく。もしかしたら日本の、あるいは海外の美術関係者に対しても同じことが起きているかもしれない。どんなに無理な解釈をしても「ロリータ」は死を意識した存在(ゴシック)という範疇には決して入ってこない。

そして束芋。「ギニょる」はとても良い作品だと思うけど、この作品を「ゴス」に入れるのはどうかと思う。この展覧会の総体イメージから、またどんどん劣化コピーがはじまって、「ゴス」はさらに変質するのだと思う。ゴシックから乖離している「ゴス」のことをあれこれ思うより、「ゴス」から乖離している企画の劣化コピー性の影響のことをもう少し考えた方が良い。


『GOTH −ゴス−』展を考える――ふたつの視点
  物語としてのキュレーション 文:高山宏
登録日:2008年3月18日